普通ってなんだろう?
「普通はさ」
「みんなそうだよ?」
「常識で考えてよ」
かつて、私の夫がよく使っていた言葉です。
でも私は、それを聞くたびに思っていました。

その「普通」って誰が決めたの?

みんなって誰?

常識って、その場にいる二人の事情より優先されるもの?
私はもともと、
「普通であること」そのものには、あまり価値を感じないタイプ
だったように思います。
人と違うことより、自分が納得できるか。
世間からどう見えるかより、自分で選んだことに責任を持てるか。
そちらの方が大事でした。
だから夫から
「普通の奥さんはこうする」
と言われても、
「なら普通の奥さんと結婚すればよかったのでは?」
くらいにしか思わなかった。
今思えば、ここはかなり強かったと思います。
でも同時に、
「普通」という言葉が効かなかったからといって、
関係全体の影響を受けなかったわけではありませんでした。
ここが、当時の私にはまだよく見えていなかったところです。
「普通」から外れることは、あまり怖くなかった
私は子どもの頃から、
「ちょっと変わってる」
と言われることに、それほど抵抗がありませんでした。
自分でも、たぶん人と少し違うところはあると思っていた。
でも、それを悪いことだとは思っていませんでした。
家庭でも、安全に関わること以外は比較的自由にさせてもらった記憶があります。
何を好きになるか。
どういう道を選ぶか。
どういう考え方をするか。
細かく修正されることはあまりありませんでした。
そのためか、
「人と違う=まずいこと」
という感覚が、もともと薄かったのだと思います。
だから、
「変わってるよ」と言われても、
「そうかもね」で終わる。
「普通じゃない」と言われても、
「それで?」で終わる。
世間体を持ち出されても、
「世間体と暮らすわけじゃないし」
と思っていました。
ここは今もあまり変わっていません。
それでも、家庭の中では少しずつ黙るようになった
以前の私は、
「普通と言われても平気だから、私はこういうタイプの支配には強い」
と思っていました。
でも今は、少し違う見方をしています。
人にはそれぞれ、
効きやすい圧力と、効きにくい圧力がある。
私は、
「世間はこう」
「普通はこう」
という圧力には、比較的影響されにくかった。
でも、
日々の不機嫌。
責任の押し付け。
子どもへの強い言葉。
話し合いが成立しないこと。
生活の細かな部分まで評価されること。
必要なときに協力が得られないこと。
そうしたものには、普通に消耗しました。
だから、
「私はモラハラに強い」
とは、もう思いません。
ただ、
何に対して自分が抵抗しやすく、何に対しては消耗するのか
が少し分かるようになっただけです。
人間、無敵属性なんてそう簡単には付与されないみたいです。
残念ながら。
「普通」を疑うことは役に立った
それでも、
「普通って誰が決めたの?」
という感覚は、私を守ってくれたと思います。
たとえば、
「妻ならこれくらいする」
「母親ならこうする」
「夫婦なら我慢する」
「家族なんだから許す」
そんな言葉を、そのまま正解として受け取らずに済んだ。
本当にそうなのか。
誰にとって都合のいい「普通」なのか。
今の家族に必要なのか。
一度立ち止まって考えられた。
この習慣は、離れるかどうかを考えるときにも役に立ちました。
「離婚したら普通の家庭ではなくなる」より、
「今の生活を続けることは、私と子どもにとって安全で健全なのか」
を考えられたからです。
私が自分を疑わなくなったのは、心理学のラベルのおかげではなかった
離婚前後、私はかなり色々調べました。
モラハラ。
精神的DV。
支配。
自己愛。
家庭環境。
被害者心理。
当時は、
「これだ」
と思える説明を見つけるたびに、少し安心しました。
何が起きていたのか分からない状態より、
名前が付いた方が整理しやすかったからです。
でも今振り返ると、
理論ひとつで相手の人格や原因まで説明しようとした部分は、少し危うかった
と思います。
本当のところ、他人の内面は分かりません。
なぜそうしたのか。
何を恐れていたのか。
どんな家庭環境が、どの程度影響したのか。
外から断定できることではありません。
私が確実に知っているのは、
何を言われたか。
何が起きたか。
私はどう伝えたか。
その後、何が変わったか。
そこまでです。
そして、それだけでも十分でした。
「私が悪かったのでは」と考えることと、全部自分の責任にすることは違う
私は、自分の行動を振り返ること自体は悪いことだと思いません。
言い方が悪かったところはなかったか。
もっと早く伝えられなかったか。
選択を間違えたところはなかったか。
今でも普通に考えます。
でも、
自分を振り返ることと、相手の行動まで自分の責任として引き受けることは違う。
これはかなり大事でした。
相手が怒鳴ったこと。
相手が無視したこと。
相手が子どもに強い言葉を使ったこと。
相手がこちらのNOを尊重しなかったこと。
そこまで
「私の伝え方が悪かったから」
と考え始めると、責任の境界が崩れてしまいます。
私は私の行動を振り返る。
相手の行動は相手のもの。
そこを分けて考えるようになって、かなり楽になりました。
ブラック企業を辞められても、家庭からすぐ逃げられるとは限らない
私は以前、合わない職場を比較的早く辞めたことがあります。
だから昔の記事では、
「何かおかしいと思ったら損切りできるタイプ」
と書きました。
それ自体は間違っていません。
でも、
会社を辞めることと、家庭を離れることは全然違いました。
住居。
仕事。
お金。
子ども。
保育園。
親への負担。
法的な手続き。
今後の生活。
「おかしい」と思った瞬間に、はい撤収、とはできない。
感情だけでは決められない現実がたくさんありました。
だから、
「気づけた人はすぐ逃げられる」
とも、
「逃げられない人は自分軸が弱い」
とも思いません。
家庭から離れるには、その人ごとの条件があります。
私は私なりに、条件が整うまで考えていただけでした。
「普通のふり」をやめたというより、説明を諦めた
昔の私は、
「普通の妻を演じていた」と思っていました。
今はもう少し違う表現の方がしっくりきます。
私はずっと、
相手に伝わる形へ自分を翻訳しようとしていた
のだと思います。
怒らせないように。
責めているように見えないように。
まず感謝を伝えて。
相手の気持ちにも理解を示して。
そのうえで、
「でも、これはやめてほしい」と伝える。
かなり丁寧にやっていました。
でも、何度やっても届かない。
そこでようやく、
私の説明が足りないのではなく、
この関係では説明そのものが機能していないのかもしれない
と思うようになりました。
それから私は、
「理解してもらうこと」より、
自分と子どもの生活を守ること
を優先するようになりました。
今は、「普通」より「快適に生きられるか」を見る
今でも私は、
「普通はこう」
と言われると、まず疑います。
でも昔より、
「普通なんて全部どうでもいい」
とも思わなくなりました。
世の中の慣習や一般的な考え方には、理由があることもある。
参考になることもある。
ただ、それをそのまま自分の家に適用する必要はない。
我が家ではどうなのか。
この子にはどうなのか。
私はどう感じるのか。
安全か。
無理がないか。
続けられるか。
そちらを見る。
普通かどうかより、ちゃんと暮らせるか。
今はその方が大事です。
おわりに:「普通」は参考資料であって、判決文ではない
「普通はこう」
「みんなそう」
「常識で考えて」
そんな言葉を聞くと、不安になることがあります。
自分だけがおかしいのでは。
自分が我慢できないだけでは。
でも、
「普通」は誰かの人生を決める判決文ではありません。
参考資料のひとつです。
大切なのは、
自分の生活の中で何が起きているか。
どこが苦しいのか。
何を変えたいのか。
相手に伝えても変わらないことは何なのか。
そこを見ること。
私は、
「普通じゃなくてもいい」
と思えたから離れられたのではなく、
目の前の現実を、自分の感覚で判断していい
と思えるようになったから、動けたのだと思います。
そして今は、
自分にも子どもたちにも、
「人と違ってもいい」
だけではなく、
「嫌なものは嫌と言っていい」
「断っても関係は壊れない」
「自分の感覚を疑いすぎなくていい」
ということも、少しずつ渡していきたいと思っています。
「普通」でなくてもいい。
でも、
自分らしさという言葉で、自分や誰かの苦しさまで正当化しなくていい。
そのくらいの距離感が、今の私にはちょうどいいです。
旅人が世界に託したひとしずくの力が、小瓶となりモラリアの地に届く。
量は問われない。小瓶はそっと物語の糧となり、時折、住人へ不思議な変化をもたらす。

