はじめに
ある日、夫から突然、

子どものDNA鑑定、してみたいんだけど
と言われました。
私は浮気をしていませんでした。
思い当たることもありませんでした。
だから最初に浮かんだのは、

なぜ?
でした。
DNA鑑定という行為そのものについて、
ここで是非を論じたいわけではありません。
私が傷ついたのは、
何の根拠もないまま、自分の誠実さを疑われたこと
でした。
疑いに、具体的な理由はなかった
後から夫に理由を聞きました。
何か証拠があったのか。
私の行動で怪しいことがあったのか。
誰かから何か聞いたのか。
でも、そういう話ではありませんでした。
私の理解では、
「なんとなく思いついたから言ってみた」
に近いものでした。
ここで私はかなり混乱しました。
疑われる側からすると、
「根拠はないけど確認したい」
という言葉は軽くありません。
なぜならその時点で、
自分は疑われる側に置かれた
からです。
問題は「鑑定すれば済む」ではなかった
こういう話をすると、
「じゃあ鑑定して白黒つければいい」
という意見もあります。
もちろん、事実確認という意味ではそういう考え方もあると思います。
でも私にとって問題だったのは、
DNAが一致するかどうかではありませんでした。
浮気をしていないのに、
「もしかして違うかも」
という前提を突然置かれたこと。
そして、その疑いを向けるに足る理由が示されなかったこと。
そこが傷ついた部分でした。
仮に鑑定で親子関係が確認されたとしても、
「なぜ私は疑われたのか」という問題は残ります。
根拠のない疑いは、相手に処理を押しつける
当時の感覚を言葉にすると、
相手が突然作った不安を、こちら側が解消させられる
ような感じでした。
疑ったのは相手。
でも証明するのはこちら。
説明を求めるのもこちら。
傷ついた気持ちを処理するのもこちら。
この構造が、私はとても嫌でした。
不安になること自体は誰にでもあります。
でも、
「自分が不安だから、相手が無実を証明して」
となると話は別です。
不安を感じた側にも、
「なぜそう思ったのか」
「その疑いを相手に向ける必要が本当にあるのか」
を考える責任があると思います。
「私なら気にしない」は、本人の気持ちを消さない
この話をすると、
「私なら笑って済ませる」
「高いもの買ってもらえばいい」
「鑑定すれば終わりじゃない?」
という反応を見かけることがあります。
それは、その人ならそう感じるというだけの話です。
同じ出来事でも、傷つくポイントは人によって違います。
だから、
「私は平気だから、あなたも平気であるべき」にはならない。
私は怒りました。
悲しかった。
信頼を軽く扱われたように感じました。
その感情まで、
「気にしすぎ」
と処理される必要はないと思っています。
信頼は「疑われなかったこと」ではなく、「疑いの扱い方」で壊れる
人間なので、不安や疑念が浮かぶことはあると思います。
大事なのは、
その疑いをどう扱うか。
根拠を確認する。
自分の不安と事実を分ける。
相手に伝えるなら、なぜそう思ったのか説明する。
そして、相手が傷つく可能性を考える。
それをせずに、
「なんとなく思ったから」
で重大な疑いを投げると、
相手にとっては、
「私はこの人から、根拠なく疑われる存在なんだ」
という新しい情報になります。
私の場合、DNA鑑定の話そのものより、
その情報の方が大きかった。
怒ったことを、あとから責めなくていい
当時の私は、
「こんなことで怒る私はおかしいのかな」
と少し考えました。
でも今は、怒って当然だったと思っています。
怒りは、いつも正しいとは限りません。
でも、
「ここを越えられるのは嫌だ」
という境界を知らせることがあります。
私にとって、
根拠なく貞操や子どもの親子関係を疑われることは、
その境界を越える出来事でした。
だから怒った。
それでよかったと思っています。
まとめ
私は浮気をしていませんでした。
だから、
「していない」と言いました。
それは言い訳ではなく、ただの事実です。
そして私が問題だと思ったのは、
DNA鑑定そのものではありません。
根拠のない疑いを向けられたこと。
その疑いを生んだ側ではなく、疑われた側が処理を求められたこと。
その結果、信頼が削られたこと。
でした。
同じことを言われても、平気な人もいると思います。
でも、傷つく人もいる。
その違いまで否定する必要はありません。
もしあなたが似た経験をして、
「怒った私がおかしいのかな」と思っているなら、
まずはその怒りが、
何を守ろうとしていたのか
を考えてみてほしいと思います。
旅人が世界に託したひとしずくの力が、小瓶となりモラリアの地に届く。
量は問われない。小瓶はそっと物語の糧となり、時折、住人へ不思議な変化をもたらす。

