断られても減らないものを、愛と呼びたい

「好きなら、してくれるはず」

「愛しているなら、もっと喜んでくれるはず」
「本当に好きなら、断らないはず」

こういう言葉は、一見すると愛情の話に見える。
でも、そこに少しだけ違和感がある。

相手が疲れている日もある。
眠い日もある。
気分じゃない日もある。
プレゼントをもらっても、大騒ぎするタイプではない人もいる。

それでも、

「反応が薄い」
「本当に好きなの?」
「俺のこと、もう愛してない?」

と確認を求め続けると、いつの間にか愛情表現が、相手の自由を削る装置に変わっていく。

「好きだからしてほしい」と「好きならしてくれるはず」は違う

「好きだから、こうしてほしい」

ここまでは自然だと思う。

会いたい。
抱きしめてほしい。
好きと言ってほしい。

親しい相手にそう思うこと自体は、何もおかしくない。

でも、
「好きなら、こうしてくれるはず」
になると、話が変わる。

相手の行動が、自分への愛情を証明するテストになるからだ。

断られれば、愛情不足。

反応が薄ければ、拒絶。

疲れていれば、冷たい。

そうやって、相手の事情よりも、自分がどう感じたかが優先されていく。

そして相手はだんだん、

「断ったら機嫌が悪くなるかも」
「今日は疲れていると言わない方がいいかも」
「もっと喜んだ方がいいのかな」

と、自分の反応まで調整するようになる。

愛情確認のはずだったものが、いつの間にか小さな支配になる。

相手の反応で、自分の価値を測らない

以前の私は、パートナーから何度も愛情を確認されることがあった。

プレゼントをもらって、

わたし
わたし

ありがとう

と普通に喜んだつもりでも、

夫
夫

反応薄くない?

と不満そうにされる。

手紙をもらっても、返事を求められる。

夫
夫

本当に俺のこと好き?

と何度も聞かれる。

当時の私は、
「付き合っているんだから、好きなのは分かるでしょう」
くらいに思っていた。
相手が私を好きでいることと、私自身の価値は別の話だったからだ。

恋人に可愛がられたからといって、自分の価値が上がるわけではない。
反対に、少し反応が薄かったからといって、自分の価値が下がるわけでもない。

今振り返ると、私たちは愛情表現に求めているものがかなり違っていたのだと思う。

相手は、私の反応を見ることで「自分は愛されている」と確認したかった。

私は、相手が何かしてくれれば、

わたし
わたし

そんなに好きなんだ。ありがとう

で終わっていた。

どちらが正しいというより、問題はその確認が相手への要求に変わった時だった。

性愛まで愛情確認の道具になると、かなり重い

「性欲が強い」
そういう説明をされることもあった。

でも今考えると、単純な性欲だけではなかったのかもしれない。
性欲なら、自分で処理することもできる。

それでも、
「相手に応じてもらえなかった」
「自分で処理するしかなかった」
こと自体が、まるで被害のように語られる。

さらに、断ると無視されることもあった。
そうなると、性愛はもう自由な選択ではなくなる。

「今日は眠い」
「仕事で疲れている」
「今日は気分じゃない」
というただの事情が、

「俺を拒絶した」
「愛していない」
という意味に変換される。

断れば関係が悪化する。
応じれば相手は安心する。

そんな状態になれば、時間とともに性愛そのものが嫌になるのは不思議ではない。

愛情確認のために求め続けた結果、かえって愛情が減っていく。

かなり皮肉な構造だと思う。

私が今、子どもたちと暮らしていて思うこと

子どもたちはよく、
「ママのこと好きだから、これあげる」
と、自分のおかずやおやつを分けてくれる。

まだちいさい下の子は、小さなパンの端を持って、

下の子
下の子

ママ、これどーぞ!

と渡してくれる。

でも私は、歯みがきした後なら、

わたし
わたし

ありがとう。
でもママもう歯みがきしちゃったから、気持ちだけもらっとくね。
あなたが全部食べていいよ。

と断る。
それで終わる。

子どもは、
「せっかくあげたのに」
と怒ったりしない。

私が子どもに、

わたし
わたし

かわいいなぁ。ちゅーしたろ。

と迫って、迷惑そうな顔をされることもある。

でも私はその顔を見て笑う。

わたし
わたし

なにその顔〜。それもかわいい。

で終わる。

断られても、愛情は減らない。
拒否されても、関係まで否定されたとは思わない。

このやり取りを見ていて、私はふと思った。

たぶん、私が欲しかったのはこういう世界だったのだ。

好意と拒否は、同時に存在していい

好きだから、何でも受け入れる。
愛しているから、いつでも応じる。

そんなことはない。

好きでも、断ることはある。
愛していても、疲れる日はある。
大事な相手でも、今日は一人になりたいこともある。
それでも関係は続く。

この感覚があるだけで、ずいぶん楽になる。

相手の「NO」は、自分の人格への「NO」ではない。
相手の疲労は、愛情不足ではない。
相手の反応の薄さは、自分の価値の低さではない。

そこを分けて考えられると、愛情はもっと軽く、穏やかになる。

愛という言葉の中に、支配は混ざる

「好きだから」

「愛しているから」

「あなたのためだから」

美しい言葉は、ときどき支配を隠す。

自分の不安を消すために、相手に反応を求める。
自分の価値を確かめるために、相手に愛情を証明させる。
自分が安心するために、相手の自由を削る。

それでも本人の中では「愛しているだけ」なのかもしれない。

だからこそ、愛という言葉だけでは見分けにくい。

見るべきなのは、
相手が断れるか。
断ったあとも、相手は罰せられないか。
相手の反応が、自分の自己評価に直結していないか。

私は今、このあたりが愛と支配の境界線なのではないかと思っている。

結論

愛情表現はうれしい。
好きと言ってもらえたら、もちろん嬉しい。

でも、それがなくても自分の価値は減らない。
キスを断られても、愛情が消えたわけではない。

プレゼントに大げさな反応が返ってこなくても、関係が壊れたわけではない。
相手を自由なまま置いておける。

断られても、相手を罰しない。
返ってこなくても、すぐには壊れない。

私は、そんなものを愛と呼びたい。

そして今のところ、
パンの端っこを「ママ、これどーぞ!」と差し出してくれる幼児の方が、
このあたりをかなり自然に理解している。

愛について語るなら、幼児から履修した方が早いのかもしれない。


支えてくれる人を攻撃する人は、なぜ最後に居場所を失うのか

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA