10年ぶりのサンマが教えてくれた自由の味

秋の夜、よみがえった記憶

ある日の夕方、
リビングに漂ってきたサンマの香ばしい匂い。

「秋だなあ」と感じると同時に、
子どもの頃の光景がブワッとよみがえりました。

焼きたてのサンマの骨を、
父に取ってもらいながら食べていた幼い頃の記憶。

ただの「当たり前」だった食卓が、
今では懐かしくてたまらない記憶に変わっています。

食卓から消えていたサンマ

実はここ10年ほど、サンマを口にすることがありませんでした。

理由はシンプルで、

  • 今年の秋までサンマが高かったこと
  • そして、モラ夫時代の食卓事情。

魚を出せば「高い」「面倒」と言われ、
空気が悪くなる。

子どもと二人だけで他の魚を焼いて食べることはあっても、当時かなり高かったサンマは封印状態でした。

「食卓の自由がない」って、
心の自由まで奪われるんだとあの頃は思い知らされていました。

三世代で味わうサンマ

そんなサンマを、久しぶりに実家の食卓で食べました。

わたしの父が”孫”のサンマの骨を丁寧に取っている光景に、思わず胸が熱くなる。

かつて私が父にしてもらったことを、今度は孫にしている。

一本のサンマが、時代も立場も超えて三世代をつないでくれる。

「食べる」という行為以上の意味を、あの香ばしい匂いとともに感じました。

骨取り戦線、異常あり

初めての食材にもかかわらず、躊躇なく爆食いする子どもたち。

「そんなに魚好きだったっけ?」
と思うほど、笑えるくらいパクパク。

私は自由の味を噛み締める間もなく、我が家の食卓は骨取り戦線に突入。

子どもたちの食欲に、「おじいちゃん」と「ママ」の箸はフル稼働でした。

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