はじめに
人は、家庭の中でたくさんのことを覚えます。
怒ったとき、どう振る舞うのか。
相手が泣いたとき、どう受け止めるのか。
お金をどう扱うのか。
家族の失敗をどう評価するのか。
「愛している相手」に、どこまで口を出していいと思うのか。
もちろん、育った家庭だけでその人の人格が決まるわけではありません。
同じ家庭で育っても、まったく違う大人になる人はいる。
大人になってから自分の考え方を見直すこともできる。
だからこの記事では、
「こういう家庭だったから、こういう人になった」
と断定するつもりはありません。
ただ、結婚生活を振り返ると、
「夫が家族に向けていた言葉や態度」と、
「夫の実家で私が見た家族同士の関わり方」に、
どこか似たものを感じる場面がありました。
今回は、そのことを書いてみたいと思います。
「泣いても意味ない」と言う父親
子どもがまだ1〜2歳だった頃。
転んで泣いたり、眠くてぐずったりすると、夫はよく、

泣いても意味ないぞ

泣くな
と言っていました。
私はその言葉を聞くたびに、少し違和感がありました。
幼い子どもにとって、泣くことはひとつのコミュニケーションです。
痛い。
悲しい。
眠い。
怖い。
まだうまく言葉にできない気持ちを、泣くことで伝えている。
だから私には、
「泣いても意味がない」
という言葉が、
「その感情は出しても仕方がない」
と言っているように聞こえました。
夫自身が、幼い頃に同じことを言われて育ったのかは分かりません。
ただ私は、
感情をそのまま受け止めるより、早く抑えることを求める
という関わり方を、夫の家庭の中でも何度か感じることがありました。
「かわいいと言われて育った」という話
夫は時々、

俺は子供の頃、
近所でもかわいいって評判だった
と話していました。
当時の私は、

へえ、そうなんだ
くらいに聞いていました。
でも後から振り返ると、夫は
「自分はどう評価されてきたか」
という話をよくしていたように思います。
かわいいと言われた。
仕事ができると言われた。
専門職としてこう評価された。
もちろん、褒められた経験を覚えていること自体は何もおかしくありません。
ただ、結婚生活の中でも、
他人からどう見られているか
をかなり気にしているように見える場面はありました。
ここにどんな背景があったのかは分かりません。
ただ私は、
自分の価値を、自分の内側だけではなく、周囲の評価でも確認する人だった
という印象を持っていました。
息子に甘い義母
義母は、夫にとても甘い人でした。
それ自体は、珍しいことではないと思います。
親にとって子どもはいくつになっても子どもです。
ただ、私は時々、
「かわいがる」と「止める」が分離している
ように感じることがありました。
里帰り出産前のこと。
義母が私に、
これから大変だけど頑張ってきてね。
自分のために何か買いなさい。
と現金を渡してくれました。
ありがたく受け取ろうとした、そのとき。
夫が横からそのお金を取り、

贅沢させるな。
生活費は俺の担当なんだから
と言いました。
私はかなり驚きました。

今、私に渡したお金では?
と思ったからです。
でも義母は、その場で夫を止めませんでした。
私はそこで、
息子が何か問題のある行動をしても、強く否定しない家庭なのかもしれない
と感じました。
もちろん、一場面だけで義母の子育て全体を評価することはできません。
ただ、夫が誰かの境界を越えたときに、
「それは違うよ」と止める人が少ない
ように見える場面は、他にもありました。
嫁より息子が中心になる場面
義母はよく、夫の好きな食べ物を差し入れてくれました。
ただ私は、ある食材にアレルギーがあり、

それは食べられません
と何度か伝えていました。
それでも、私が食べられないものが差し入れられることがありました。
ある日、私が不在の間に義実家で食事をした夫が、

あなたの分も持って帰ってきたよ
と、タッパーを渡してくれました。
中身は、残り物をまとめたような状態でした。
もちろん、悪意があったとは限りません。
単純に、
「息子が好きなものを用意する」
ことが家庭の中心で、
嫁の好みや事情までは意識が向かなかっただけかもしれません。
でも私は、こうした小さな場面の積み重ねから、
家庭の中で、誰の都合が優先されるのか
という文化を感じていました、
数十円で空気が変わる家
義父は、かなり節約を重視する人でした。
ある日、買い物から帰ってきた義母に、
これいくらだったの?
〇〇ストアならもっと安かったのに。
もったいない。
と言っていました。
差額は数十円程度だったと思います。
私は、

嫁がいる前でも普通に言うんだ
と驚きました。
節約そのものは悪いことではありません。
でも、
少しでも効率が悪いと指摘される
選択が正しいかどうか評価される
という環境が続くと、
家の中で何がするときに、

これで怒られないかな
と考えるようになります。
私は結婚生活の中で、同じような感覚を何度も経験しました。
電気代。
水道代。
食事。
買い物。
育児。
「それ、本当に必要?」
「もっとこうすればいい」
「それは無駄」
そんな評価が、生活のいろいろな場面に入ってきました。
「正しいことを教える」という家庭文化
義父は、子どもが生まれてから育児について話すこともありました。
最近は〇〇がいいらしいぞ
昔は△△だったけど
私は、

そうなんですね
と聞いていました。
知っていることを教えてくれようとしていたのだと思います。
ただ、夫にも似たところがありました。
家族との会話で、
まず相手の話を聞くより、正しい情報を渡そうとする
ことが多かった。
「こうした方がいい」
「それは違う」
「普通はこう」
善意だったことも多いと思います。
でも、家族が欲しいのはいつも「正しい答え」とは限りません。
疲れているときは、ただ
「大変だったね」
と言ってほしいこともある。
子どもが泣いているなら、
「泣くな」ではなく、「痛かったね」
が必要なこともある。
正しさを与えることと、相手を見ることは別です。
私は結婚生活の中で、その違いを何度も感じました。
家庭環境は「原因」ではなく、「学習の場」
昔の私は、
「夫がこうなった原因は、実家の育て方なのではないか」
と考えたことがありました。
でも今は、そこまで単純ではないと思っています。
人の行動は、家庭環境だけで決まりません。
性格もある。
経験もある。
友人や仕事の影響もある。
そして何より、大人になってから自分で選び直すこともできます。
だから、
「親がこうだったから仕方がない」
ではありません。
ただ、
家族同士で感情をどう扱うか。
意見が違ったときどうするか。
誰かの失敗をどう受け止めるか。
「愛している相手」に、どこまで介入していいと思うか。
そうした感覚の原型は、家庭の中で学ぶ部分もあると思います。
そして、自分が育った家庭では普通だったことが、
別の家庭ではとても苦しいこともある。
結婚は、ときどきその違いを容赦なく見せてきます。
理解することと、許すことは別
夫にも、夫なりの背景があったのだと思います。
なぜあんな言い方をしたのか。
なぜそこまで「正しさ」にこだわったのか。
なぜ家族にも、自分の基準を求めたのか。
背景を考えることで、理解できる部分はあります。
でも、
理解できることと、受け入れ続けることは別です。
過去に何があったとしても、
子どもにきつい言葉を投げること。
相手の嫌がることを続けること。
家族のNOを無視すること。
それを、そのままにしていい理由にはなりません。
大人になったあとの行動には、その人自身の責任があります。
おわりに
家庭から受け継ぐものは、顔や体質だけではありません。
言葉の使い方。
怒り方。
謝り方。
相手の感情との距離。
そういう目に見えないものも、知らないうちに受け継ぐことがあります。
でも、それは運命ではありません。
「自分の家では普通だった」
と気づいたあと、
それを次の世代にも渡すのか。
ここで止めるのか。
そこから先は、大人になった自分が選ぶことです。
私は、自分の子どもたちには、
泣いてもいい。
断ってもいい。
嫌なものは嫌と言っていい。
それでも大切にされる。
そんな家庭を渡したいと思っています。
旅人が世界に託したひとしずくの力が、小瓶となりモラリアの地に届く。
量は問われない。小瓶はそっと物語の糧となり、時折、住人へ不思議な変化をもたらす。

